★ もうかれこれ二年越しにくすぶっている問題です。早尾さんとはメールで話し合いましたが、ことばがかみ合わず、解決には至りませんでした。この件についてはもう何も望むことはありませんが、事情を伏せたままにしておくと、今後、いろんなところでバッティングして、いやな雰囲気になって誤解を招きそうなので、公開することにしました。次の二つの訳文をみていただければ、問題は明白だと思います→ 「アメリカの思想」と「先のことを考える」 (2003年11月15日)

早尾貴紀さんへ

『現代思想2002年6月臨時増刊号』に早尾貴紀訳として掲載されたエドワード・サイードのエッセイ「アメリカを考える」は、同年3月5日にわたくしが自分のウェッブサイトに公開し、同時に早尾さんを含む多数のみなさまに「更新通知」としてEメール送付させていただいた拙訳と酷似していました。そのようなものを私になんの断りもなく、また私の訳を参照したことをどこにも記すことなく、ご自分の名前で発表されたことは「剽窃」行為にあたると私は考えております。しかし早尾さんは、自分にはやましいところはないというお考えです。プライベートに話し合いの努力を重ねたつもりですが今年の夏にはもはや限界に達してしまいました。早尾さんには下記のものの原型になった文章を2003年7月にお送りしましたが、それを含めた早尾さんの回答は、わたしが問題にしていないことを陳謝なされたものであり、当惑させられました。責めていないことを謝ってもらってはかえって迷惑ですし、言葉で信頼が回復できる段階は通り越してしまったので、すべてを公開してこの問題を終わらせたいと思います。

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『現代思想』に載った訳文には、早尾さんが2002年3月末に「パレスチナ・オリーブ」という、配偶者の皆川万葉さんが管理するウェブサイトに、拙訳と酷似したものをご自分の名前で公開されていたという前段階があります(『現代思想』の編集者に早尾さんがこの企画を提案なさったときに見せたものです)。私が正式に苦情の対象としたのは版権をもとに告訴の対象となりうる上記の論文だけですが、インターネットも作品の発表という機能においては活字媒体に劣らぬ効力をもつものであり、研究者として活動なさる早尾さんであれば当然ながら回答の義務のある問題であると考え、パレスチナ・オリーブのサイトにおける活動を含めてお答えいただきたいと思います。以下に、私が把握している事実関係を記します。誤りがあれば指摘してください。

背景

早尾さんとわたくしは共訳というかたちで2002年1月にみすず書房から『戦争とプロパガンダ』を出版いたしました。二人ともすでにインターネット上でサイードの翻訳記事を公表していたため、一部の記事は重複して翻訳されていたのですが、実際に早尾さんの訳を基にしたのは収録した8本の論文のうち最初の2本(プロパガンダと戦争、集団的熱狂)だけでした。この2本は、すでに雑誌「みすず」の2001年10月号に掲載されたもので、その段階ですでにわたくしが手を入れており、単行本に入れるためにさらに大幅に修正したものでした。早尾さんがウェッブで公表されていた他の翻訳は採用されませんでした。2001年末、この本の編集にあたって早尾さんとはじめてお会いし、わたくしのサイト「RUR55」にサイードの最新コメントを毎回載せていることを直接お話しました。従って、少なくともそれ以降は、早尾さんは私のサイトの存在と、そこにサイードの最新コメントが載っていることを、ご存知でした。2002年1月20日前後に早尾さんが『批評空間』に対し「パレスチナに生まれるオルターナティブ」の翻訳を載せてはどうかと提案なされた時には、すでにわたくしのサイトにその記事が載っていること(18日に掲載)あるいは載るであろうことはご承知でした。わたくし宛てに、自分のコンピューターからはわたしのサイトのこの記事だけが見られない、という趣旨のメールをいただきました。

その後、3月にamlというメーリングリストに早尾さんからイヴェント紹介のメールがあったので、パレスチナ・オリーブのサイトを開いてみると、そこには早尾さんによるサイードの最新コメントの翻訳が並んだページがあって、

今度、今度、「バックラッシュとバックトラック」「無知の衝突」など、サイード論考の本文・訳註の翻訳見直しが行われ、『戦争とプロパガンダ』というタイトルで、みすず書房から出版されました。詳しくは、本サイトの書籍紹介のページ、またはみすず書房のページをご覧ください。

と、書いてあり、あたかもこの二本の論文までもが早尾さんの訳をもとに「戦争とプロパガンダ」に収録されたかのように紹介されていました。またそのすぐ下にリンクされていた早尾貴紀訳のこの二本の記事は、出版されたものを踏まえて従来のものに修正が加えてありました。しかし、そこに私の名前は共訳者としてさえまったく出ていません。いったい「共訳」という言葉には、早尾さんがご自分のサイトでこのように勝手に利用なさる自由までもが含まれているのでしょうか?この時点で、かなり不信感がわきました。

その後、4月にふたたびパレスチナ・オリーブのサイトを訪れると、上記のページに新たに早尾さんの名前で「アメリカの思想」の「粗訳」と書かれたものが載っていました。それは、わたしが3月はじめに更新通知でお知らせしたものと酷似したものだったため、驚きを禁じ得ませんでした。もちろん、私の翻訳がすでに公開されていることも、それを参照したということも、いっさい書かれてありません。この時点では、これが後に「アメリカを考える」と改題されて『現代思想』に掲載されるということは知らなかったのですが、ウェッブ上にこのようなものが掲載されただけでも、非常に不当なことだと思いました。

早尾さんは、ご自分の翻訳を市民運動関連やパレスチナ関連のメーリングリストに流しておられ、そこでご自分のサイトも積極的に紹介されています。この時点ではかなりアクティブで、アクセスも多かったので、ここに掲載することを「公表」と考えないということはできないでしょう。早尾さんが、このような行為を確信をもってやっておられることは、その後5月になって、またもう一本同じような酷似した翻訳(「先のことを考える」という、4月に私のサイトに載せ、更新通知を出した記事です。どんなに酷似しているかについてはこちら)が「早尾貴紀訳」として載っていることで確認されました。このときには、これから先もこのパターンが続くのだろうかと思って、私もかなり悩みました

『戦争とプロパガンダ2』を出そうという企画は、4月の中ごろになって持ち上がったものです。つまり、「アメリカの思想」を早尾さんがサイトに公開された時点では、続編を出すという話はなかったわけです。この頃まで私のサイトはあまり知られておらず(自分の名前を出したのは2002年になってからですし、人に知られるようになったのは『戦争とプロパガンダ 2』にアドレスを記載したからです)、第二巻が出なければ早尾さんのなさったことも、おそらく追及されることはなかったでしょう。

以上のような背景のもとで、実際に『現代思想』に掲載されたものを見て、微細な修正はあるものの本質的にはウェッブサイトに載っていたものと同じであることを確認し、正式にクレームをつけるに至りました。

「アメリカを考える」(アメリカの思想)の異常な類似性について
それまでにも私と早尾さんのあいだには並行した翻訳がいくつか存在していたのですが、『現代思想』に掲載されることになった「アメリカの思想」は、これまでのものとは段違いに類似した文になっています。日本語の文の構造もこっけいなほど似ているのですが、日本語の表現という以前に、サイードのようにワンセンテンスが長く、多義的に解釈する余地のある文章を読みくだくときに、最初から最後までぴったり同じ解釈、切り方になるということは、偶然ではありえないとわたしは考えています。それ以前にも早尾さんが発表されたものが妙に似ていなかったわけではありませが、今回は類似の段階が違うのです。例えば『批評空間』に発表された「オルターナティブ」と「アメリカの思想」を比べてみますと、前者についての類似性は主に解釈について指摘できるのですが、後者は日本語の処理の仕方までもがぴったり同じなのです。ここまで類似したものが別の人の名前で雑誌に発表されたということになると、それについてわたしが何も言わなければ、事情を知らない人にはわたしが模倣したかのように映るでしょう。また早尾さんとのギクシャクした関係が理由を伏せたまま続いていることは、いらざる誤解を生むことが予想されます。そういうわけで、問題を公開することにしました。公開することに早尾さんが異論をもたれるとも思えません。ここに示した二つのファイルは、ともに現在も早尾さんのホームページに堂々と公開されているものだからです(2003年11月15日現在)(「アメリカの思想」と「先のことを考える」)。わたしはただそれを比較に便利なフォーマットに流し込んだだけで、非公開のものを暴露したわけではありません。なによりも、早尾さんは、やましいことはしていないという立場なのですから。

「剽窃」行為について
早尾さんは、ご自分の翻訳が私の影響を受けて「似ている」とは認めておられます。でも、それはこれまでの「共訳作業」で影響を受けたために自然に身についてしまったものであり、翻訳にあたっては自分でいちいち複数の辞書を引いたのだから、それはやはり自分の翻訳であるとのご説明です(この「共訳作業」というのは、すでに揃っていた100ページ程度の訳文を、相互チェックしてメールで意見交換したことをさすらしいのですが、その程度のことなら編集者は常時もっと大量にやっているでしょう。また、辞書を引くことがどうして自分の翻訳だと主張する論拠になりうるのかは、わたしには理解できません)。しかし、早尾さんがどのような意図と方法で翻訳されたのかは、確かめようもなければ、証明のしようもないことなので、胸を張って断言されてもあまり意味はありません。むしろ問題は、自分のものとして発表したという事実、私の訳の存在を隠したという事実だとわたしは考えています。早尾さんの主観はどうであれ、結果的に既存のものと非常に似たものをつくってしまったのであれば、そもそも自分の名前を付けて発表することの根拠がない。それでも強いて発表するというのであれば、少なくともオリジナルの存在を隠蔽してはいけないだろうというのが私の主張です。

すでに早尾さんには何度もメールでご説明したつもりですが、わたしは同じ文書について他の人が別の翻訳を発表するということを問題にしているのではありません。自分が先に訳したから他の人が翻訳してはいけないなどとは一言も申しておりませんし、先行する他人の翻訳を見る機会があったとしても、それだけで新たな翻訳をすることの制約になるとは思いません。たとえ目を通すことがあっても特に参考になったとわけではないというなら、べつに参照した旨を断る必要もないと考えています。つまるところ、それは本人の意識の問題であり、やましいところがないのならば、いくら似ているといわれても、取りあう必要などないのです。はっきりさせておきたいのですが、わたくしの苦情は、「先に私の訳があったのに、早尾さんが後から自分の訳を発表した」ということではありませんし、「影響を受けていたので、知らず知らずに似たものを作ってしまい、それを認識できずに発表してしまった」という「未熟さ」に対してでもありません。私がおたずねしたのは、「非常に似たものを自分の名前で発表した」ということと、「参照した事実を隠蔽した」ということのあいだに、やましい意図は働いていなかったのかということにつきます。

具体的には、次のことが問題です。

1)似ていることを承知の上で自分のウェッブサイトに発表し、そこには私の翻訳を参照したことも、私のサイトが存在することもまったく記さなかったこと。

2)似ていることを承知の上で『現代思想』という雑誌に自分の翻訳を掲載するように提案したこと。

3)その際に、雑誌編集者に対し、その翻訳を自分のウェッブサイトに掲載していることも、それ以前に掲載されたわたしの翻訳が私のウェッブサイトにあることも、サイードの翻訳を載せたウェブサイトが複数存在しているということもなにも知らせず、結果的に判断を誤らせて出版社にも不利益を与えたこと。

4)ウェッブおよび雑誌掲載の両方について、事前に私になんの連絡もしなかったこと。

人から「影響をうけて」、ほとんど同じものをつくりあげ、それを自分の作品であるとして発表し、影響を受けたことについて完全に口を閉ざしていれば、それは「剽窃」という行為ではないのでしょうか。

中野真紀子 

Post Script
早尾さんからは、これに対して「剽窃」かどうかという肝心な問いには答えていただけませんでしたが、「似ていることを承知のうえで」というのは正しくないという指摘をいただきました。ここに拙訳と早尾訳を比較したものを掲載しましたが、これを比べて「似ている」という自覚がなかったというのであれば、それはそれで恐ろしい話だと思います。この程度の類似は認識できないとおっしゃるのであれば、これからも同じようなことはいくらでも起こるわけですから。

早尾さんからは話し合いを打ち切った後になってようやく少しはましな陳謝のメールをいただきましたが、表向きにはそれに見合うような処置はなにもとられていません。粗訳ファイルは相変わらずウェッブ公開されているし、引き続き「オススメの新刊」として『現代思想 6月臨時増刊号 思想としてのパレスチナ』を宣伝しておられます。まあ、その程度の「反省」なのだと理解しております。


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